ネモフィラの代名詞とも言える「あなたを許す」という花言葉には、古くから語り継がれる切ないギリシャ神話の由来と経緯が存在します。まずは、多くの花言葉事典やメディアで紹介されている物語のあらすじを振り返ってみましょう。
かつてギリシャに、互いを深く愛し合う若い夫婦が暮らしていました。ある日、夫は美しい妻を喜ばせようと、誰も足を踏み入れてはならないとされる「冥界の入り口(あるいは深い森の奥)」に咲く、神秘的な青い花を摘みに出かけます。しかし、禁断の地に足を踏み入れた夫は神々の怒りに触れ、二度と妻のもとへ帰らぬ人となってしまいました。残された妻は深い悲しみに暮れ、夫の亡骸(あるいは帰らぬ夫を待つ森のほとり)で涙を流し続けます。やがて妻は「私を置いて逝ってしまったあなたの無謀な行動も、すべて私への愛ゆえのこと。私はあなたを許す」と呟きました。その瞬間、妻の涙が落ちた地面から、夫が命がけで摘もうとしたあの澄んだ青い花が一面に咲き誇り、それがネモフィラと名付けられた――という筋書きです。
涙なしには読めない悲恋の物語ですが、園芸史や植物学の一次資料を紐解くと、ここには一般に知られていない重大な盲点とネットの誤解が隠されています。
植物学の公式分類データによると、ネモフィラ(学名:Nemophila menziesii)の原産地は北アメリカ西部のカリフォルニア州やオレゴン州周辺です。1790年代にイギリスの植物学者アーチボルド・メンジーズによって北米で採取され、1830年代にヨーロッパへ導入されて初めて園芸植物として普及しました。つまり、古代ギリシャの時代に地中海沿岸にネモフィラは自生しておらず、本来のギリシャ神話にネモフィラが登場することは歴史的・地理的にあり得ないのです。
では、なぜギリシャ神話の由来がこれほど広く定着したのでしょうか。園芸文化史の専門家や植物園の解説資料によると、ネモフィラという学名の語源がギリシャ語の「nemos(小さな森)」と「phileo(愛する)」を合成した言葉(「森を愛する」の意、森林の周辺の日だまりに自生する性質から命名)であったことが出発点となっています。19世紀後半にイギリスやフランスで「花言葉(フロリオグラフィ)」ブームが巻き起こった際、ギリシャ語由来の学名と、ギリシャ神話のナルキッソス(スイセン)やアネモネのような「愛する人の死から花が咲く」という古典的モチーフが創作的に結びつけられ、昭和期の日本の花言葉関連書籍を通じてロマンチックな神話として定着したのが真相です。