インターネット上の言説や一般的な解説書では、しばしばエミリー・フローゲを「稀代のプレイボーイ画家に翻弄されながらも健気に待ち続けた悲劇の女性」として情緒的に描く傾向が見られます。しかし、歴史的事実を検証すると、これは明らかな誤解です。
まず第一に、エミリーのサロンは年間を通じてウィーンの上流階級の顧客で溢れており、彼女自身がヨーロッパのモード界を牽引する多忙な実業家でした。年2回はパリやロンドンへ直接買い付けに赴き、最先端のテキスタイルをウィーンに持ち帰っていました。
第二に、1918年にクリムトが55歳で世を去った際、彼のアトリエの遺品整理を指揮し、膨大なデッサンや未完の作品群を後世に残すための管理を行ったのはエミリーでした。彼女はクリムトの遺産を保護する極めて有能なアーキビスト(記録管理者)の役割を果たしたのです。
しかし、彼女の晩年は決して平穏ではありませんでした。1938年のナチス・ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)によって主要な顧客層であったユダヤ系の上流階級が亡命や迫害を余儀なくされ、サロンは閉鎖に追い込まれます。さらに第二次世界大戦末期の1945年、ウィーン市街の火災によってクリムトからの手紙の一部や貴重な衣装コレクションの多くが焼失しました。それでも彼女は1952年に77歳で亡くなるまで、クリムトの記憶と誇りを胸に静かに生き抜きました。