ネット上には「エマ(リマ)はなぜニッカウヰスキーの跡を継がなかったのか」「リタの死後に莫大な遺産を巡ってトラブルがあったのではないか」という無責任な憶測が散見されます。しかし、歴史の公的記録とニッカウヰスキーの社史を照らし合わせると、そこには当時の日本企業が直面していた事業承継の冷徹な構造が存在していました。
ニッカウヰスキー後継者が養女リマではなく「甥・竹鶴威」だった理由
竹鶴政孝が築き上げたウイスキー事業を継承したのは、養女のリマではなく、政孝の実の甥であり後に養子に迎えられた竹鶴威(たけつる たけし)でした。この事実をもって「リマは勘当されたのではないか」と邪推する声がありますが、これは当時の法制度および製造業の現場実態を無視した誤認です。
当時、ウイスキー造りは過酷な肉体労働と高度な化学・醸造知識を要求される職人の世界でした。政孝は後継者として、自らの血を引く甥であり、北海道大学工学部で醸造化学を専攻していた威を1943年に正式な養嗣子(跡継ぎ)として迎え入れました。威は後にニッカウヰスキーの第2代社長として「余市」「宮城峡」のブランドを世界最高峰へと押し上げる伝説的ブレンダーとなります。リマが事業から離れたのは一族の排斥などではなく、「職人・技術者としての事業承継」と「個人の家庭生活の分離」という合理的な経営判断によるものでした。
リタの臨終とリマの帰国:埋められなかった最期の空白
もう一つの悲劇的な史実は、養母リタの最期です。リタは長年の過労と結核、肝硬変を患い、1961年(昭和36年)1月17日、63歳でこの世を去りました。アメリカで生活していたリマは母の危篤の知らせを受け取ったものの、当時は太平洋を渡る定期航空路が一般的ではなく、渡航手続きの遅れもあり、リタの臨終に立ち会うことは叶いませんでした。
後に一時帰国したリマは、余市の竹鶴家墓地に佇み、言葉を失って涙を流したと伝えられています。後年、リマは日本へ帰国して静かな余生を送り、2000年代初頭に世を去りました。彼女の胸の内に去来した「母への謝罪と感謝」は、ドラマのような分かりやすい言葉ではなく、激動の昭和を生き抜いた者だけが知る深い沈黙の中に封印されたのです。