「しゃぶしゃぶ用豚肉を茹でると、なぜか硬く縮んでしまう」という悩みの背後には、食肉タンパク質が変性する熱力学的なメカニズムが存在します。肉の主成分であるタンパク質のうち、弾力と柔らかさを生み出す「ミオシン」は約50〜60℃で凝固を始め、肉の線維を急激に縮めて水分(肉汁)を外へと絞り出す「アクチン」は約66〜73℃で変性を起こします。豚肉が固くならない茹で方の理由は、このアクチンの収縮をいかに最小限に抑えるかという温度コントロールに集約されます。
グラグラと沸騰する100℃の熱湯に肉を投入すると、薄い筋肉組織は一瞬にしてショックを受け、細胞内の水分が最大30%以上も流出します。これが、パサつきと筋っぽさをもたらす元凶です。プロが実践する柔らかく仕上がる火入れの真相は、鍋底から小さな気泡が静かに立ち上る「70℃〜80℃」のキープにあります。沸騰した湯に大さじ2杯程度の料理酒や差し水を加え、火を極弱火にしてから肉を1枚ずつ泳がせるように潜らせるだけで、筋線維の保水性が保たれ、箸で千切れるほどのしっとり感が実現します。
さらに見落とされがちなのが、茹で上げた直後の冷まし方です。冷しゃぶを作る際、多くの人が氷水に肉を落としがちですが、これは大きな間違いと言えます。融点の高い豚肉の脂が急冷によって一気に凝固し、口の中でロウのように固まって舌触りを著しく損なうためです。正解は「ザルやキッチンペーパーを敷いたバットに広げ、うちわや室温で自然に粗熱を取る」手法です。これだけで、脂の融解点を損なうことなく、滑らかな口当たりを維持できます。