なぜ地方都市の一つである名古屋が、日本最大の巨大組織の中枢へと上り詰めたのか。その歩みを紐解くには、昭和から平成にかけて繰り広げられた血みどろの抗争と、歴代組長が築き上げた独自の組織論を振り返る必要があります。
かつての名古屋は、地場組織である導友会や運天会、名神会などが割拠する群雄割拠の地でした。1970年代から1980年代にかけて起きた激しい縄張り争い、いわゆる「中京戦争」を経て、三代目山口組の直参組織であった弘田組が頭角を現します。この弘田組で若頭を務めていたのが司忍初代会長であり、その傘下で武闘派として名を馳せたのが高山清司二代目会長でした。
1984年、弘田組の解散に伴って司忍会長が結成したのが「弘道会」です。司会長と高山会長のタッグは、徹底した合理主義と厳格なピラミッド型統制を導入しました。いわゆる「弘道会方式」と呼ばれるこの統治システムは、組員に対して民間企業並みのコンプライアンス管理と経済活動の規律を求め、従来のヤクザ組織が持っていたルーズさを徹底的に排除したことで知られています。
2005年、司忍会長が六代目山口組組長に就任すると、高山清司二代目会長が山口組若頭に就任し、弘道会は名実ともに組織の頂点に君臨しました。その後、竹内照明三代目会長へとバトンが継承された現在に至るまで、名古屋は単なる地方拠点ではなく「山口組の心臓部」として全国の裏社会に君臨し続けています。