1932年、石川県能登町(旧内浦町)の杜氏の家系に生まれた農口尚彦氏の経歴は、日本酒の近代史そのものと言っても過言ではありません。父や祖父の背中を追って酒造りの道に入った農口氏は、20代半ばで石川県白山市の名門「菊姫」の杜氏に就任。当時、全国新酒鑑評会で27回連続の金賞受賞をはじめ、通算で数多くの金賞を獲得するという前人未到の金字塔を打ち立てました。
農口氏が日本酒業界に遺した最大の功績の一つが、手間がかかりすぎて絶滅寸前だった伝統技法「山廃仕込み(やまはいしこみ)」の復活と再定義です。農口氏が手掛けた山廃は、それまでの「重く飲みにくい」という常識を覆し、濃厚でキレのある芳醇無比な味わいを実現し、全国の蔵元に計り知れない衝撃を与えました。さらに、蔵人しか口にできなかった「無濾過生原酒」を商品化し、現在のフレッシュかつダイレクトな日本酒トレンドの源流を築いたことでも知られています。
その後、菊姫を退任した農口氏は一度目の引退を迎えますが、酒造りへの情熱は冷めやらず、加賀市の「常きげん」で杜氏として復帰。ここでも卓越した技術で銘酒を生み出し、2006年には厚生労働省より「現代の名工」、2008年には「黄綬褒章」を受章しました。しかし、2012年に再び引退を表明。誰もが「神様の手による酒造りはこれで幕を閉じた」と考えていました。