テクノロジーの歴史は「利便性の向上」の歴史そのものであった。移動を速くし、通信を即座に行い、計算の手間を省く。この「便利=善、不便=悪」という産業革命以来の固定観念に鋭い問いを投げかけたのが、京都大学のデザイン学ユニットなどで長年研究をリードしてきた川上浩司教授(現・情報学研究者)らのグループである。
川上浩司教授の不便益論における根幹は、「不便益(Benefit of Inconvenience)」という言葉が示す通り、「不便であることによって生じる独自の効用」に着目する点にある。ここで言う不便とは、目的に対して労力や時間、認知的負荷を要求する状態を指す。従来の工学がそうした負荷の徹底排除を目指してきたのに対し、京都大学の研究成果は「負荷があるからこそ人間の能力が覚醒し、喜びや愛着が生まれるメカニズム」を工学的に定式化した。
学問的アプローチとしては認知工学と心理学的効果がベースに据えられている。人間は自らの身体や頭脳を使って試行錯誤し、ハードルを乗り越えた対象に対して強い価値を感じる心理傾向(イケア効果や自己決定理論)を持つ。すべてが自動化されたシステムの中では人間は単なる「受動的な監視者」に成り下がり、主体性や達成感を奪われてしまう。不便益は、テクノロジーと人間の健全な緊張関係を取り戻すための極めて理論的な処方箋なのだ。