東西を揺るがした承平天慶の乱の結末は、朝廷軍の力によってではなく、皮肉にも現地の武士同士の激突によって迎えられました。
天慶3年(940年)、朝廷は将門追討のために参議・藤原忠文を征東大将軍に任命しました。しかし、官軍が関東に到着するよりも前に、事態は電光石火の展開を見せます。将門に父を殺された私怨を持つ平貞盛と、下野国の有力豪族で卓越した武勇を誇る藤原秀郷(俵藤太)の連合軍が結成されたのです。
当時、将門軍の兵士の大半は普段は農作業に従事する農民たちでした。春の農繁期を前にして、多くの兵が郷里へ帰還しており、手元に残っていたのはわずか数百の精鋭騎馬兵のみでした。天慶3年2月14日、下総国猿島郡で行われた北風吹きすさぶ合戦において、将門は自ら陣頭に立って奮戦したものの、一筋の矢が額を貫通し、志半ばで無念の討死を遂げました。新皇宣言からわずか2か月あまりの儚い終焉でした。
一方の瀬戸内海では、将門の死によって朝廷が西国へ軍事力を集中させることが可能となりました。天慶4年(941年)、追討長官・小野好古率いる官軍と、武名を上げつつあった源経基らが送り込まれます。大宰府を占領していた藤原純友軍は博多津の戦いで壊滅的な打撃を受け、本拠地である伊予国へ逃げ帰ったところを捕縛され、獄中で急死(一説には討ち死)しました。
この乱の歴史的意義は極めて重大です。平将門と藤原純友という二大巨頭の死によって動乱そのものは鎮圧されましたが、「もはや貴族の力だけでは国の治安を維持できず、武士の軍事力に頼らざるを得ない」という朝廷の決定的な弱点が白日の下に晒されたからです。
反乱を鎮圧した平貞盛の子孫からはのちに伊勢平氏(平清盛ら)が誕生し、藤原秀郷の子孫からは奥州藤原氏や関東の有力武士団(足利氏、小山氏など)が輩出されました。朝廷を守る側についた武士たちが「軍事貴族」として中央政界での発言権を強め、やがて平氏政権や鎌倉幕府へとつながる「武士の時代」の扉が、この天慶の戦火によって力強く押し開かれたのです。