インターネット上や観光ガイドで頻繁に語られる「寛永10年(1633年)に領民が一夜で造った」というロマンあふれる由緒ですが、歴史学や考証の観点からは複数の異説が存在します。これらは旅をより深く楽しむための重要な教養です。
最大のミステリーは年号の整合性です。幕府が寛永通宝を正式に制定・発行したのは寛永13年(1636年)であり、伝承の寛永10年にはまだ公式な寛永通宝は流通していませんでした。そのため、歴史研究者の間では「幕末の文久年間(1861〜1864年)に丸亀藩主の巡視を迎えるために造られた」「あるいは明治以降に観光開発や地域振興を目的として改修・定着した」という説が有力視されています。
また、ネット上では「自然に風化して消えてしまわないのか?」「雨風で崩れたらどうするのか?」という疑問が散見されます。実は、この美しい姿が維持されている背景には市民ボランティアによる不断の努力が存在します。
観音寺市では毎年、春(4月〜5月頃)と秋(10月頃)の年2回、「砂ざらえ」と呼ばれる大規模な修復作業を実施しています。早朝から地元の小学生、市民団体、観光協会関係者ら数百名がスコップを手に集結し、風雨や台風で崩れた砂の溝を丁寧に掘り起こして形を整えています。つまり銭形砂絵は、過去の遺物ではなく、現代を生きる地域住民の手によって守り継がれている「生きた文化遺産」なのです。