個々人としては知性も分別もあるはずの人々が、ひとたび集まると暴力的な衝動に駆られたり、不可逆な集団パニックを引き起こしたりする。この謎に初めて体系的なメスを入れたのが、19世紀末のフランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンです。彼の主著『群衆心理』(1895年刊行)は、近代社会における大衆行動を予見した古典として今なお読み継がれています。
ル・ボンは、群衆心理の特徴として「感情の伝染」「被暗示性の亢進(催眠状態に近くなること)」、そして「衝動的かつ知的能力の著しい低下」を挙げました。個人が集団という巨大な塊に溶け込んだ瞬間、固有の道徳観や責任感は揮発し、まるで一つの原始的な生命体のように衝動に従って動き出します。このとき働く心理的引力には、明確な3つのステップが存在します。
第1のステップが「没個性化」です。名前や社会的肩書が集団のなかに埋没し、匿名性を得たと感じた人間は、自己同一性を失うと同時に内面的な規範意識を急速に弛緩させます。第2に「責任の分散」が生じます。「自分一人くらいやってもバレない」「みんながやっているから自分だけの罪ではない」という無意識の免罪符が、普段なら踏みとどまる一線をやすやすと越えさせます。
そして第3のステップが「情動の同期と増幅」です。隣人の怒りや恐怖、歓喜といった原初的感情は、理屈を介さずミラーニューロンを通じてダイレクトに神経系へ伝播します。個人の小さな疑念が集団内で反響し合うことで絶対的な狂信へと変貌を遂げるプロセスこそ、群衆が集団パニックのメカニズムへ転落していく決定的な理由なのです。