プロフェッショナルレスリング藤原組の歯車が狂い始めたのは、1992年10月に開催された東京ドーム大会『激突!!』の前後でした。看板レスラーへと急成長した船木誠勝はモーリス・スミスを破り、鈴木みのるも名勝負を連発。団体の人気は頂点に達していましたが、水面下では「興行としてのプロレス」を重んじる経営陣・藤原と、「完全実力主義の真剣勝負」へと舵を切りたかった船木・鈴木らとの間で埋めがたい溝が生じていました。
船木や鈴木が後年の自著やインタビューで明かした証言によると、当時の東京ドーム大会では外国人選手とのマッチメイクや演出を巡り、フロント主導の「勝敗調整」や「プロレス的演出」が色濃く介入し始めていたといいます。「自分たちが目指すのはこれではない」という葛藤を抱えた若き狼たちは、道場での練習においても純粋なスパーリングと関節技の極め合いに没頭し、従来のプロレス興行の枠組みに激しい疑問を抱くようになっていきました。
決定的な亀裂が決壊したのは、1992年12月のことです。船木、鈴木、冨宅、高橋らの主力選手が一斉に辞表を提出し、藤原組からの離脱を表明しました。この集団離脱劇こそが、1993年9月に世界初の本格的総合格闘技団体として産声を上げる「ハイブリッド・レスリング パンクラス」旗揚げの直接的な引き金となります。「秒殺劇」を現実のものとしたパンクラスの過激なリアリズムは、皮肉にも藤原組の道場で培われた濃密なサブミッション技術が母体となっていました。