日本の学校教育を受けた者であれば、多くの人が国語の授業で宮沢賢治と出会います。特に注文の多い料理店 教科書での掲載歴は半世紀以上に及び、読書教材の最高峰として君臨し続けています。
都会からやってきた二人の若い紳士が、白熊のような犬を連れて山奥へ狩猟にやってくるものの、山鳥も獣も一匹も獲れず、犬も狂い死にしてしまう。そんな彼らの前に現れた瀟洒な西洋料理店「山猫軒」。次々と扉に書かれた奇妙な注文(髪を梳け、靴の泥を落とせ、塩とクリームを体に塗り込め)を都合よく解釈し、最終的に「自分たちが食べられる側の獲物」であったことに気づく展開は、子ども心に鮮烈な恐怖とサスペンスを与えます。賢治が自序で「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます」と記した通り、傲慢な人間中心主義に対する強烈なしっぺ返しが企図されています。
続いて風の又三郎 解説において着目すべきは、閉鎖的な東北の農村社会に現れた「異邦人」に対する集落の子どもたちの心理描写です。二百十日の風の強い日、山あいの分教場に東京から転校してきた謎めいた少年・高田三郎。地元の子どもたちは、彼を風の精霊「又三郎」ではないかと疑い、畏怖と憧れを抱きながら交流します。谷川の冷たい水、栗の実、放牧された馬たち。賢治の筆致は東北の自然の豊穣さを描き出すと同時に、わずか数日で再び台風のように去っていった三郎を通じて、少年期の儚い一瞬の神秘を鮮烈に定着させています。
そして芸術家としての賢治の側面が最も愛らしく反映されているのが『セロ弾きのゴーシュ』です。金星音楽団で活動写真館の演奏を担当するへたくそなセロ奏者ゴーシュが、楽長から叱責されながらも、夜な夜な訪れる猫やかっこう、狸の子、野ねずみの親子と交流する中で演奏技術と他者への慈愛を開眼させていく物語です。作中で楽長がゴーシュに投げかける厳しい言葉や、最後にゴーシュがかっこうを思って呟くセロ弾きのゴーシュ 名言「ああかっこう。あのときはすまなかつたなあ。おれは怒つたんぢやなかつたんだ」という独白は、不器用な人間が他者と共鳴することの困難と美しさを静かに物語っています。