延喜・天暦の治はなぜ理想とされたのか?平安親政の虚実と真相に迫る

延喜・天暦の治はなぜ理想とされたのか?平安親政の虚実と真相に迫る

延喜・天暦の治はなぜ理想とされたのか?平安親政の虚実と真相に迫るの基礎知識と応用に迫る! 専門的な視点で紐解きます。

平安時代において、天皇が幼少あるいは病弱であることを理由に政治を代行する「摂政」、成人後の天皇を補佐し国政を後見する「関白」を置かず、君主自らが政務を統裁する形態を親政と呼びます。醍醐天皇の治世である延喜期、そして村上天皇の天暦期は、まさにこの外形上の条件を満たしていました。では、なぜこの二つの治世が、後世において「聖代(理想の時代)」と崇められるに至ったのでしょうか。

最大の要因は、鎌倉時代末期から室町期にかけての公家社会や皇族の政治意識にあります。特に鎌倉幕府を倒して自らの親政を樹立しようとした後醍醐天皇にとって、摂政・関白や武家権力に束縛されず天皇が直接権力を振るっていた「先例」が必要不可欠でした。朝廷儀礼の完成形とされた『延喜格式』や、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の編纂など、王朝文化の頂点を極めた時代であったことも、文化的な権威付けとして大きく作用しました。

しかし、政治体制の骨格を冷静に分析すると、形式上の親政と実質的な権力構造には明らかな隔たりが存在します。醍醐天皇の時代を差配したのは左大臣の藤原時平であり、村上天皇の時代に実権を握っていたのは太政大臣の藤原実頼でした。つまり、役職としての摂政・関白こそ置かれていなかったものの、政治決定のプロセスは常に藤原北家の内覧・主導権のもとに置かれていたのが実態です。「天皇専制の時代」という解釈は、後世の為政者が自らの都合に合わせて過去を美化した歴史的フィクションの側面を強く帯びています。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。