本楽曲が単なるロックアンセムの枠を超え、世界的な「赦しと希望のシンボル」となった決定的な契機が、2017年5月22日に発生したマンチェスター・アリーナ自爆テロ事件でした。アリアナ・グランデのコンサート直後に22名もの尊い命が奪われたこの未曾有の悲劇に対し、事件から3日後の追悼集会(セント・アンズ・スクエア)で、ひとりの女性(リディア・ローハス氏)が静かに『Don't Look Back in Anger』を口ずさみ始めました。
その歌声は瞬く間に周囲の数千人の市民へと伝播し、涙と祈りの大合唱へと発展。その様子はBBCをはじめとする世界各国のメディアで速報され、テロに対する非暴力と連帯の意思表示として世界中へ拡散されました。なぜ、数ある名曲の中でこの曲だったのでしょうか。そこには深い心理学的・社会学的メカニズムが作用しています。
心理学におけるグリーフケア(喪失と悲哀のプロセス)の観点では、理不尽な暴力や喪失に直面した人間は初期段階で強い「怒り(Anger)」と「復讐心」に支配されます。しかし、その怒りをそのまま外部へ投げ返せば、憎悪の連鎖を生むだけです。本曲の「怒りを抱えて過去を振り返るな、少なくとも今日だけは」というフレーズは、被害者や市民が自制心を取り戻し、健全な心理的バウンダリー(怒りと自己の境界線)を維持するための精神的防波堤として機能しました。
マンチェスターという労働者階級の街で育ち、家庭内暴力や貧困を生き抜いてきたノエル・ギャラガーの人生観が、図らずも「理不尽な痛みを抱えながらも前を向いて歩き出す人々の支え」となったのです。