旧伊勢神トンネルにまつわる噂の中で、もっとも知名度が高いのが「幼い子どもを連れた母親の幽霊」あるいは「泣き叫ぶ赤ん坊を抱いた女性」の目撃談です。一部では「かつてトンネル建設工事で多くの作業員が生き埋めになり人柱になった」「遠足帰りのバスが転落して母子が犠牲になった」といった痛ましい事故が原因だと語られています。
しかし、郷土史や当時の新聞記録を丹念に調査しても、トンネル内で母子が巻き込まれるような大規模な死亡事故や、組織的な人柱の記録は一切確認されていません。工事中の落盤による死傷事故や、過去の峠越えで遭難死した旅人の記録は散見されるものの、これらが時代を経て口承されるなかで脚色され、ショッキングな「母子の悲劇」としてプロパガンダ化された可能性が極めて高いと考えられます。
伊勢神峠は古くから標高が高く、濃霧や吹雪に見舞われる交通の難所でした。過酷な峠越えで命を落とした無名の人々の記憶と、トンネル特有の閉塞感、そして暗闇が人間の脳に引き起こす錯視が結びつき、実体のない恐怖を生み出し続けているといえます。