かつての日本家屋において、台所は単なる作業場ではなく、家庭内で最も畏れ多く神聖な空間と見なされていました。その中心に位置したのが、へっついです。
火と水を同時に扱う調理の場には、火災を防ぎ家族の無病息災をもたらす神として「竃神(かまどがみ)」や、仏教・神道が習合した「三宝荒神(さんぽうこうじん、通称:荒神様)」が祀られました。民間信仰において荒神様は極めて清浄を好み、不浄や嘘、家庭内の争い事を最も激しく嫌う厳格な神とされています。
かつての暮らしでは、へっついに腰をかけたり、刃物を向けたり、灰を足で踏み荒らす行為は固く禁じられていました。毎月1日と15日にはへっついの前に清めた水と塩、神酒を供え、煤を払って拝む習慣が全国的に定着していました。大晦日の夜には、1年間火を守ってくれたかまどの神が天に昇ると信じられ、火を落としてへっついを清掃し、元日の朝に新たな火を切り出す「若火(わかび)迎え」の儀式が行われたのです。
民俗学の研究資料によると、この竃神信仰は、木造密集地帯であった長屋社会における「徹底した防火意識の精神的規範」として機能していました。火災が都市全体を焼き尽くす恐怖と隣り合わせだった江戸や大坂の人々にとって、へっついを敬い清浄に保つことは、共同体の安全を守るための絶対的な道徳律だったと言えます。