大隈重信の逝去を受け、1922年1月17日に東京・日比谷公園で執り行われたのが日本史上初となる「国民葬」です。元老でありながら官僚主導の国葬を辞退し、国民の手によって見送られる形式が選ばれました。
当日の日比谷公園とその周辺には、全国から集まった学生、市民、政財界の要人など約30万人が詰めかけました。早稲田大学の学生たちは喪章を身につけて棺を先導し、沿道は身動きが取れないほどの人波で埋め尽くされたと当時の東京朝日新聞や読売新聞は報じています。花輪の数は数千組に達し、日比谷から文京区の護国寺に至る葬列は延々数キロメートルに及びました。
大隈重信が遺した「最後の言葉」の真相
臨終の間際、大隈重信が発したとされる言葉にはいくつかの伝承が存在します。病床で意識が混濁する中、側近や妻・綾子に対して「これでお別れだな」「みんな、国家のために尽くしておくれ」と感謝と激励の言葉を伝えたとされています。
また、大隈は生前、自らの健康法と楽天主義を交えて「人生125歳説」を提唱していました。「人間は本来125歳まで生きられる構造になっている」という持論を展開し、周囲を鼓舞し続けた大隈。惜しくも目標の125歳には届きませんでしたが、83歳で旅立つその刹那まで「吾輩はまだやりたいことが山ほどある」と生きる意欲を失わなかった姿勢こそが、彼の実質的な遺言と言えます。
安息の地:文京区・大本山護国寺の墓所
大隈重信の遺体は、東京都文京区大塚にある真言宗豊山派の大本山「護国寺」に埋葬されました。護国寺の広大な墓域の一角には、威風堂々とした巨大な大隈家の墓碑が建立されています。現在でも早稲田大学の教職員・学生や卒業生、歴史ファンが絶えず墓参に訪れ、近代日本の礎を築いた巨頭への敬意が捧げられています。