川相昌弘氏のプロ野球人生は、決して華々しいスター候補生としてのスタートではありませんでした。岡山南高校時代はエース投手として甲子園に出場し、1982年ドラフト4位で読売ジャイアンツに入団。プロ入り後に内野手(遊撃手)へ転向しました。
当時の巨人軍は、原辰徳、篠塚和典、中畑清、ウォーレン・クロマティら錚々たるスター選手が打線を形成していました。その中で生き残るため、川相氏は自らの役割を「チームを勝たせるための黒子役」に定め、徹底した守備練習とバント技術の習得に没頭したのです。
やがて桑田真澄、槙原寛己、斎藤雅樹の「先発三本柱」が台頭し、藤田元司監督や長嶋茂雄監督が率いる黄金期において、川相氏は「2番・ショート」として不動の地位を築きます。1番打者が出塁すれば確実に送り、3番・4番の主軸へ好機を託すプレースタイルは、巨人軍の勝利の方程式となりました。
見落としてはならないのは、川相氏がゴールデングラブ賞を6度受賞している点です。守備範囲の広さ、捕球から送球への滑らかな身のこなし、ポジショニングの巧みさは球界屈指であり、卓越した守備力があったからこそスタメンとして出場し続け、533回もの犠打機会を積み重ねることができたのです。