岸信介が「昭和の妖怪」と恐れられた最大の理由は、およそ通常の政治家では再起不能とされる絶体絶命の局面を、冷徹な計算と強靭な政治力でことごとく覆してきた規格外の生存能力にあります。
東京帝国大学法学部を首席で卒業後、農商務省に入省した岸は、当時のエリート官僚の中でも群を抜く構想力と行動力を持っていました。1936年に渡った満州国では実務の最高権力者である総務庁次長を務め、軍部の東条英機、日産コンツェルンの鮎川義介らとともに「弐キ参スケ」の主要人物として君臨。ソ連型の五カ年計画を取り入れた統制経済を敷き、巨大な重化学工業基盤を短期間で築き上げました。この満州国時代に培った官僚機構の統制力と巨額の資金運用術こそが、彼の権力の原点でした。
1941年の東条内閣成立に伴い商工大臣に就任した岸は、太平洋戦争の開戦詔書に署名します。しかし、サイパン陥落を契機に戦争継続を不可能と判断すると、東条首相からの辞任要求を毅然と拒絶。内閣不一致を引き起こして東条内閣を瓦解に追い込みました。信念のためには権力中枢をも平然と突き崩す凄みを見せた瞬間でした。
敗戦後、岸は当然のごとくA級戦犯容疑者としてGHQに逮捕され、巣鴨プリズンに3年3カ月にわたり収監されます。誰もが岸の政治生命は完全に絶たれたと考えました。しかし、1948年12月24日、東条英機ら7名の死刑執行の翌日に、岸は不起訴処分となって突如釈放されます。この電撃的な釈放劇の背景には、激化する冷戦構造の中でアメリカが対日占領政策を「非軍事化・民主化」から「反共の防波堤化」へと転換した、いわゆる「逆コース」がありました。卓越した行政手腕と反共思想を持つ岸を、アメリカ側が日本の再建と共産主義封じ込めに利用価値が高いと判断した結果でした。
巣鴨を出所した岸は、公職追放が解除されるやいなや1953年に衆議院議員として国政へ復帰。わずか2年後の1955年には、保守合同を主導して自由民主党の結党に決定的な役割を果たしました。戦犯被疑者からわずか10年足らずで政党総裁、そして1957年に内閣総理大臣へと上り詰めたこの凄まじい不死鳥のごとき軌跡こそ、国民や政界関係者が彼を「妖怪」と呼び、畏怖した決定的な理由です。