1822年3月下旬から数か月にわたり、キオス島では言語に絶する凄惨な略奪と虐殺が繰り広げられました。島を包囲したオスマン軍は、正規兵のみならず周辺地域から略奪目的で募った数万の不正規部隊を島内に解き放ちました。扇動したサモス島の反乱軍指導者たちは、戦況の不利を悟ると島民を見捨てて真っ先に船で脱出してしまい、残されたのは一切の防衛手段を持たない無辜の町民や農民たちだったのです。
歴史的名刹であるネア・モニ修道院をはじめ、島中の教会や山あいの要害に逃げ込んだ人々は包囲され、容赦なく命を奪われました。成人男性はその場で刀剣や火器によって殺害され、若い女性や子どもたちは奴隷市場へと引き立てられました。島内の美しい街並み、豊かな果樹園、そして名門の図書館に至るまで焼き払われ、エーゲ海の真珠と謳われた島は一夜にして文字通りの焦土と化したのです。
当時の被害の規模は、近代戦争史においても類を見ない壊滅的な数字を示しています。歴史学者による推計や当時の欧州外交官の報告に基づくデータは以下の通りです。
このデータが示す通り、キオス島の虐殺は「反乱の鎮圧」という枠組みを遥かに逸脱し、ひとつの都市文明を物理的に消滅させる規模のジェノサイド(集団虐殺)でした。わずか数か月で人口の約8割以上が殺戮されるか連行され、島は死臭漂う無人の廃墟と化したのです。