武力での完全屈服を諦めた秀吉が仕掛けたのは、プライドをかなぐり捨てた前代未聞の懐柔策でした。これが徳川家康の豊臣臣従の経緯における最大のハイライトです。
秀吉はまず、40歳を超えていた実の妹・朝日姫を夫と強制的に離縁させ、正室を失っていた家康の継室(後妻)として嫁がせました。これに対し家康は礼を尽くしつつも上洛(臣従の誓い)を拒み続けます。すると秀吉はさらに実母である大政所を人質として三河・岡崎へ送り込むという、最高権力者としては常軌を逸した手段に出たのです。
家康としても、関白の母まで差し出されては上洛を拒む名分が完全に消滅しました。1586年10月、家康は大坂城に入り、秀吉に対面。前夜に秀吉が自ら家康の宿所を訪れ、「明日の謁見では大名たちの前で自分を立ててくれ」と頭を下げたという逸話は、二人の力関係が単純な上下関係ではなく「対等の盟友に極めて近い政治的妥協」であったことを物語っています。