この条約の真意を理解するには、幕末に結ばれた最初の条約からの国境画定交渉の経緯を辿る必要があります。両国の領土線引きは、一度の合意で決まったわけではありません。
幕末の安政元年(1854年調印・1855年批准)、幕府の全権・川路聖謨とロシア使節プチャーチンによって締結されたのが日露和親条約です。この条約において、千島列島側は択捉島と得撫島の間に明確な国境線が引かれ、択捉島以南が日本領、得撫島以北がロシア領と確定しました。しかし、樺太については「従前どおり国境を画定せず、両国民の混住の地(雑居地)とする」という曖昧な先送りが選ばれたのです。
この「棚上げ」が、維新後に激しい摩擦を生むことになります。雑居地であるがゆえに現地では日露の住民や兵士の間で小競り合いが頻発し、軍事力で圧倒するロシアの実効支配が南へ南へと押し寄せてきました。これを根本的に清算すべく、千島樺太交換条約(1875年・明治8年)によって、樺太全島をロシア領とする代償として、得撫島から占守島に至る北千島全島を日本に譲渡させ、国境線を完全に分離・画定させました。両条約の決定的な違いは、「曖昧な混住の放置」から「明確な国境線の確定」への脱却にありました。