この物語の最大の魅力は、与一の人間味あふれる心理描写にあります。無敵の英雄としてではなく、死の恐怖とプレッシャーに震える一人の青年として描かれている点です。
指名を受けた当初、与一は「外せば源氏の名折れになる」と二度にわたって辞退を申し出ています。しかし、総大将・義経から「我が命令に従わぬ者は、ここから立ち去れ(=即座の処罰・武士としての死を意味する)」と恫喝され、逃げ場を完全に失いました。
波打ち際に馬を進めた与一は、揺れる的と吹き荒れる風を前にして、己の力だけではどうにもならない運命を悟ります。そこで彼は、故郷の下野国に鎮座する日光権現や那須温泉大明神、そして源氏の氏神である八幡大菩薩へ全存在をかけて祈りを捧げました。心理学における「極限のゾーン状態(極度の集中による没我)」への突入です。
「目を閉じる」ことで外部の恐怖や雑念を完全に遮断し、神仏へ命を委ねた瞬間に風が止む。目を開けた瞬間、世界が静止したかのように的が定まって見えた描写は、古典文学の中でも屈指の心理サスペンスと言えます。