回答兼刷還使の実現には、公式の歴史記録だけでは見えてこない、綱渡りの外交工作と謀略が存在していました。その中心にいたのが、対馬藩主・宗義智(そう よしとも)率いる対馬藩宗氏です。
対馬藩は耕地が極めて少なく、朝鮮との交易(対馬貿易)がなければ藩民の命を維持できない構造にありました。秀吉の侵略戦争によって日朝貿易が完全停止したことは、対馬藩にとって文字通りの死活問題だったのです。
一方、関ヶ原の戦いを経て天下人となった徳川家康も、西国大名の統制と自らの政権の正統性を対外的に示すため、日朝関係の早期修復を強く望んでいました。しかし、朝鮮側は国交回復のために極めて厳しい2つの条件を突きつけます。
- 条件1:日本側から先に謝罪の国書を送ること
- 条件2:秀吉の先鋒として朝鮮の王陵(王族の墓)を荒らした犯人を逮捕し引き渡すこと
しかし、武家の棟梁たる家康が他国に対して先に謝罪の書状を出すことは、幕府の権威上絶対に受け入れられませんでした。ここに絶対絶命の板挟みとなった対馬藩は、驚くべき手段に出ます。
宗氏は日本側の国書を勝手に偽造して朝鮮側に渡し、さらに国内の重罪人を「王陵を荒らした犯人」に仕立て上げて朝鮮へ引き渡したのです。朝鮮側もこの工作に薄々感づいていましたが、国内の捕虜救出と日本の再侵略防止という大義名分を得るため、この事実をあえて黙認し、1607年に第1回となる回答兼刷還使の派遣を決定しました。
この国書偽造事件は、のちに1635年の「柳川一件(やながわいっけん)」として幕府に露見しますが、家康の孫である3代将軍・徳川家光は、対馬藩の日朝外交における重要性を考慮し、宗氏の改易(取り潰し)を免除するという異例の政治決断を下しています。