3世紀後半から約300年以上にわたって日本列島を席巻した前方後円墳ですが、6世紀末から7世紀初頭にかけて、まるで示し合わせたかのように全国で一斉に造営が停止されます。前方後円墳はなぜ作られなくなったのか、その背景には古代日本社会における決定的なシステム転換がありました。
最大の理由は、「古墳から寺院へ」という国家的モニュメントのパラダイムシフトです。538年(または552年)の仏教公伝以降、蘇我氏をはじめとする中央豪族は、莫大な富と労働力を巨大な土の墓を作るためではなく、壮麗な瓦葺きの仏教寺院(飛鳥寺や四天王寺など)を建立することへ注ぎ込み始めました。大陸から導入された最新の建築・金工・彫刻技術を結集した寺院こそが、新時代の権威の象徴となったのです。
もう一つの決定的な要因は、ヤマト王権の統治機構が「首長連合」から「天皇を中心とする中央集権的な律令国家」へと脱皮した点にあります。かつての前方後円墳は、ヤマト王権に服属した各地の地方豪族に対し、「お前たちの身分に応じたサイズの墓を作ることを認める」という政治的ライセンス(前方後円墳体制)として配分されていました。身分秩序を外見の形と大きさで可視化していたわけです。
しかし、律令制への移行が進むにつれ、身分秩序は官位や戸籍、法制度によって管理されるようになります。そして大化2年(646年)に発令されたとされる「薄葬令(はくそうれい)」によって、身分ごとに作れる墓の規模や動員日数、副葬品が厳しく制限され、民衆に過度な負担を強いる巨大古墳の造営は法的に禁止されました。
さらに、大王(天皇)自身の墓も、前方後円墳から「八角墳(はっかくふん)」へと移行します。八角形は古代中国の道教思想において「天下八方」を統治する至高の君主を象徴する形態です。地方豪族と同じ「前方後円」の形を捨て、天皇だけが唯一無二の八角墳に葬られる構造を確立したことで、前方後円墳はその歴史的使命を完全に終えたのです。