戦国史を理解する上で最大のハードルとなるのが、当時の地理区分である「令制国(りょうせいこく)」と現代の「都道府県」との乖離です。戦国時代の日本地図は、古代律令制に由来する「五畿七道(山城・大和・河内・和泉・摂津の五畿、および東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)」をベースとした66国体制で区分されていました(※律令制の枠組みのため、当時の琉球や蝦夷地は令制国に含まれません)。
奈良時代の771年に武蔵国が東山道から東海道へ移管された歴史があるように、街道筋と国の所属は密接に結びついていました。しかし、この旧国名と現代の都道府県は面積も境界線も大きく異なります。
例えば、現在の愛知県は「尾張国」と「三河国」の2国に分かれており、信長の本拠である尾張(西側・平野部と水運)と、家康の本拠である三河(東側・山間部と港湾)では風土も在地武士団の気質も全く異なっていました。現在の東京都・埼玉県・神奈川県東部にまたがる「武蔵国」や、東北全域をほぼ2分していた広大な「陸奥国」「出羽国」のように、現在の都道府県複数分が1国にまとめられていたケースもあります。
さらにミクロな視点で見ると、日本全国は約633の「郡(ぐん)」に細分化されていました。戦国大名の領土拡大の経緯とは、国単位で一挙に塗り替わるような単純なものではなく、「〇〇郡の国衆が寝返った」「街道沿いの3郡を制圧した」という緻密な郡単位・城郭単位の奪い合いの積み重ねでした。戦国時代の旧国名地図と現代地図を対比させることで、各大名が喉から手が出るほど欲しがった要衝の真の価値が見えてきます。