抜群の検挙率を誇り、人足寄場の運営でも成果を上げた長谷川平蔵ですが、官僚としての出世レースにおいては常に不遇をかこちました。彼が終生望んでいたとされる「江戸町奉行」のポストには、ついに就任することができませんでした。
その背景には、当時の老中首座・松平定信との深刻な政策的・思想的対立がありました。朱子学を重んじ、清廉潔白・質素倹約を理想とする定信にとって、若い頃に放蕩を重ね、人足寄場の運営資金を作るために相場張りに手を染める平蔵のプラグマティズム(実利主義)は、「山師」「清濁併せ呑みすぎる危険人物」と映ったのです。
定信の日記『宇下人言(うげのひとこと)』にも、平蔵の手腕を評価しつつも「功を焦る風がある」「品行に問題がある」といった警戒感が記されています。現場の泥臭い現実を知り尽くす実務派の平蔵と、理想主義的なエリート官僚の定信。組織における「現場トップと経営陣の埋まらない溝」が、平蔵の栄達を阻む最大の要因となりました。