若島津が大相撲史において今なおファンの記憶に強く残るのは、「実力的には間違いなく横綱の器であった」と評価されながら、ついに東の正横綱へ登り詰めることができなかった悲劇性ゆえです。横綱になれなかった直接的な分岐点は、1984年(昭和59年)名古屋場所とその直後の秋場所にありました。
名古屋場所において、若島津は鬼気迫る相撲で15戦全勝優勝を達成しました。初場所での14勝1敗での幕内初優勝に続く2度目の賜杯であり、誰もが「次場所での横綱昇進は確実」と信じて疑いませんでした。しかし、満を持して臨んだ翌秋場所、若島津を待っていたのは見えない重圧と肉体の異変でした。
当時の大相撲中継関係者や部屋付親方らの証言によると、綱獲りへの極度のプレッシャーからくる不眠に加え、稽古中に痛めた右足首の負傷、さらには当時すでに兆候のあった持病の糖尿病による急激なスタミナ低下が若島津の身体を蝕んでいました。序盤から硬さが目立ち、取りこぼしを重ねた結果、秋場所の成績は11勝4敗。当時の横綱審議委員会が求めた「大関で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績」という厳格な基準を満たすことができず、昇進は見送られました。
その後も大関上位で優勝争いに加わり続けたものの、体重を無理に増やせない体質と糖尿病の進行がボディブローのように効き始め、再び綱獲りのチャンスを掴むことは叶いませんでした。この「一度の挫折がすべてを分けた」ドラマ性こそが、若島津という力士の哀愁とカリスマ性を決定づけています。