中森明菜を語る上で欠かせないのが「衣装の自作・自前監修」という側面です。なぜ彼女は、一流のスタイリストやデザイナーが周囲にいながら、自ら針を持ち、デザイン画を描き、生地選びまで深く関わったのでしょうか。
そのルーツは家庭環境にあります。洋裁が得意だった母・千恵子氏の姿を見て育った明菜は、幼少期から型紙の構造や布地の落ち感に対する鋭い嗅覚を持っていました。デビュー後、既製の衣装を与えられるなかで「この服では、この歌詞の女性の心が伝わらない」という強い違和感を抱いたことが、自作や直接買い付けを始める引き金となります。
当時の特番インタビューや自著・手記でも語られている通り、彼女は多忙を極めるスケジュールの合間を縫って、単身でパリやロンドンへ渡航。現地のアトリエやヴィンテージショップを巡っては、トランクいっぱいのドレスや布地、アクセサリーを自腹で購入していました。既存のスタイリストが持ってくる衣装に対して「襟ぐりを2ミリ下げてほしい」「袖のギャザーを解いてほしい」とミリ単位で指示を出したという逸話は、制作現場では広く知られています。
操り人形としての「アイドル」であることを徹底的に拒絶し、表現の責任をすべて自らの肩に引き受ける覚悟。彼女にとって服作りとは単なる趣味ではなく、自らの歌唱芸術を守るための防壁であり、戦うための甲冑(かっちゅう)でもあったのです。