荘園の拡大を抑え込もうとする試みは、平安時代を通じて何度も行われてきました。中でも有名なのが、902年の「延喜の荘園整理令」と、1045年の「寛徳の荘園整理令」です。では、延久の荘園整理令は何が違っていたのか、主要な指標から比較してみましょう。
延喜の整理令は、崩壊しかけていた奈良時代以来の班田収授・律令制度を無理に取り戻そうとしたため、時代の現実に合わず破綻しました。一方、寛徳の整理令は関白・藤原頼通自身の政権下で行われたため、摂関家領をはじめとする有力権門の荘園が手厚く保護され、結果として「抜け穴だらけのザル法」と化してしまったのです。
延久の整理令は、過去の失敗を徹底的に研究し尽くしたうえで、「中央の専任機関による直接審査」「権力者への聖域なきメス」という2つのブレイクスルーを同時に実現させた点に決定的な違いがありました。