蘇我氏の家系図と天皇家を結ぶ暗闘の真相|滅亡の理由から末裔の現在まで

蘇我氏の家系図と天皇家を結ぶ暗闘の真相|滅亡の理由から末裔の現在まで

蘇我氏の家系図と天皇家を結ぶ暗闘の真相|滅亡の理由から末裔の現在までの概要と注目ポイントを徹底的にカバーしました。

蘇我氏の権力確立の歩みにおいて、最大の軍事的・政治的障壁となったのが軍事貴族の筆頭であった物部氏(もののべし)との激突でした。歴史の授業では「崇仏派の蘇我氏」と「排仏派の物部氏」による宗教戦争として教えられるケースが目立ちますが、歴史研究の現場においてこの対立は単なる信仰の争いとはみなされていません。

本質は、渡来人の技術や外交ルートを掌握して新たな国際秩序への適応を目指す蘇我氏と、ヤマト王権草創期以来の軍事力と祭祀権掌理を背景に既得権益を守ろうとした物部氏による、国家運営の主導権争いでした。蘇我馬子は百済からの仏教公伝を契機に、先進的な土木建築技術、文字記録による官僚統制、渡来系氏族の財政基盤を巧みに自陣営へ組み込みました。

両者の対立は587年、用明天皇の崩御を契機に武力衝突へと発展します。これが「丁未の乱(ていびのらん)」です。蘇我馬子は厩戸皇子(聖徳太子)ら有力皇族を味方に引き入れ、河内国渋川郡にあった物部守屋の本拠地を急襲。守屋を討ち取って物部氏の宗家を完全に壊滅させました。

軍事的な対抗勢力を一掃した馬子は、政権内での独走態勢を固めます。しかし、その権力は時に天皇の存在すら凌駕する暴走を見せました。即位後に蘇我氏の専横に反発を示した第32代・崇峻天皇に対し、馬子は592年、東漢駒(やまとのあやのこま)という刺客を放って現職の天皇を暗殺するという、前代未聞の暴挙に及びます。直後に姪である推古天皇を擁立し、甥の聖徳太子を摂政に据えることで朝廷の動揺を抑え込みましたが、この冷徹な政治手法は、王権と蘇我氏の間に消えない緊張関係を刻み込むことになりました。

池田 達也
著者

池田 達也

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。