事件前夜の緊張は、一夜にして生まれたわけではありません。1760年代以降、イギリス本国が相次いで打ち出した植民地課税政策が、ボストンの人々の心に不信の種を蒔き続けていました。
発端となったのは、1764年の砂糖法と、翌1765年に制定された印紙法です。印紙法は、新聞、証書、トランプに至るまで、植民地内で流通するあらゆる印刷物に公の印紙を貼ることを義務付けた苛酷な直接税でした。これに対し、アメリカ側は激しい印紙法と砂糖法の反対運動を展開します。彼らが掲げたスローガンが、イギリス憲政の原則に基づく抗議の言葉でした。
「代表なくして課税なしの原則(No taxation without representation)」――ロンドンの本国議会に植民地選出の議員が一人もいないにもかかわらず、本国が一方的に植民地へ課税することは、イギリス国民としての基本的権利の侵害であるという主張です。激しいボイコット運動と暴動を受け、本国議会は印紙法を翌年撤回に追い込まれますが、本国の立法権が植民地に及ぶことを示す「宣言法」を盾に、課税の権利自体は決して手放しませんでした。
さらに1767年にはタウンゼンド諸法によってガラス、鉛、紙、茶に輸入関税が課され、ボストン市民の不満は沸点に達します。治安維持のために本国軍の正規兵が街へ駐留するようになると、市民との間で日常的な摩擦が頻発。1770年3月5日、抗議する群衆に対してイギリス軍警備兵が発砲し、市民5人が命を落とす「ボストン虐殺事件の背景」が生み出されたのです。この流血の記憶は市民の心に深く刻まれ、本国への憎悪は決定的なものとなっていきました。