ここで見落とせないのが、日本の人魚伝説の経緯です。日本における人魚の最古の記録は『日本書紀』の推古天皇27年(西暦619年)にまで遡ります。近江国(現在の滋賀県)の蒲生川に「人のような形をした異形のもの」が現れたと記されていますが、この時代の認識は「天変地異や政変の前兆となる不気味な怪異」でした。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』などでも、浜辺に人魚らしき死骸が打ち上げられると「兵乱の兆し」として恐れられ、神社で大規模な祈祷が行われた記録が残っています。西洋のアンデルセン童話に見られるような「美しく可憐な人魚」のイメージとはかけ離れた、禍々しい存在だったのです。
この「怪異の予兆」が「不老不死をもたらす霊薬」へと劇的に変容した契機こそが、中国から流入した道教の神仙思想や『山海経(せんがいきょう)』などの博物志の影響です。中国古代の伝承では、海に棲む人魚の油は万年消えない灯火となり、その肉は長寿をもたらすと信じられていました。この神仙思想と、日本の海浜民が持っていたジュゴンやスナメリ、オオサンショウウオなどの誤認体験が融合し、「人魚の肉=不老長寿の秘薬」という八百比丘尼伝説の強固な土台が完成したと分析されています。