慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争において、江戸城が無血開城されると、幕府瓦解を潔しとしない海軍副総裁・榎本武揚率いる旧幕府艦隊が北を目指しました。徳川恩顧の忠臣であった中島三郎助もまた、長男の恒太郎(当時22歳)、次男の英次郎(当時19歳)を伴って艦隊に合流し、蝦夷地へと渡航します。
箱館政権下で三郎助は「箱館奉行並」に就任し、市中の治安維持や民政、物資補給を統括しながら、市民から絶大な信望を集めました。しかし明治2年(1869年)春、新政府軍の大攻勢により戦況は悪化の一途をたどります。
本拠地の五稜郭を死守する防衛拠点として、三郎助は千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岱陣屋)の守備隊長に着任。5月15日、盟友である榎本武揚は三郎助に対し、これ以上の無益な流血を避けるため五稜郭への撤退と降伏を打診しました。しかし三郎助は「徳川家数百年の大恩を受けながら、一朝にして命を惜しむは武士の道にあらず」と断固として拒絶しました。
翌5月16日早朝、新政府軍の圧倒的な兵力による総攻撃が開始されます。三郎助は長男・恒太郎、次男・英次郎、そしてわずかな手勢と共に抜刀して敵陣へ突撃。親子3人は乱戦の中で相次いで銃弾に倒れ、壮烈な戦死を遂げました。この千代ヶ岡陣屋の陥落により、翌5月17日、榎本武揚らは正式に降伏文書へ調印。箱館戦争、ひいては戊辰戦争全体の戦闘が完全に幕を下ろしたのです。