元暦2年(1185年)2月、讃岐国屋島(現在の香川県高松市)。背後の山を駆け下りて奇襲を仕掛けた源義経軍に対し、平家軍は屋島の拠点を放棄して軍船へと逃れ、海上に陣を敷きました。日没が近づき、互いに攻めあぐねて膠着状態に陥った酉の刻(午後6時頃)、平家方の船団から一艘の美しい小舟が漕ぎ出してきます。
舟に乗っていたのは、18〜19歳ほどの際立って美しい女房でした。女房は、紅地に金の日輪が描かれた扇を船首の舷(ふなばた)に挟み立て、陸の源氏軍に向かって「これを射てみよ」と手招きします。これこそが、屋島の戦いにおける扇の的の幕開けでした。
平家側の意図は明白でした。暮れゆく戦場で源氏方の武芸を試し、もし射損じれば「東国武士の弓矢など恐るるに足らず」と嘲笑して士気を挫く心理戦です。挑発を受けた義経は、源氏の威信を守るため、軍中で弓の名手と名高かった下野国の武士・那須与一(宗高)を呼び出します。
この推薦を行ったのが、義経の最側近である伊勢三郎義盛でした。義盛は「軍中にこれ以上の手練れはおりません」と推挙したものの、与一自身は当初、「外せば末代までの恥になる」として固辞します。しかし、激怒した義経が放った言葉は容赦のない最後通告でした。
「この義経の命令に背く者は、即刻この場から立ち去れ(従軍を拒否するなら首をはねる)」
主命絶対の軍律のもと、与一は「外せば自害、当たれば生き残る」という、逃げ場のない極限状況へと追い込まれていったのです。