神道無念流の門弟表を紐解くと、幕末の対立軸であった「倒幕派(長州志士)」と「佐幕派(新選組)」の双方に、流派を代表する最高峰の怪物が名を連ねていた事実に突き当たります。
「逃げの小五郎」が隠し持っていた神速の上段
維新の三傑として知られる長州藩士・桂小五郎は、嘉永5年(1852年)に江戸へ剣術留学し、練兵館に入門しました。入門後わずか1年で頭角を現し、若くして塾頭を任されるとともに免許皆伝を授けられています。
明治以降、政治家としての慎重な立ち回りから「逃げの小五郎」という異名が定着しましたが、当時の同門たちの証言記録によると、彼の剣術は「一度竹刀を握れば手がつけられないほど攻撃的」でした。大柄な体を活かした上段からの神速の打ち下ろしと鋭い突きは、三大道場の他流試合でも無類の強さを誇ったと記録されています。自らの命を保身のためではなく大業のために温存できたのは、絶対的な剣の自信に裏打ちされた心理的余裕があったからに他なりません。
新選組最強の斬り込み隊長・永倉新八
一方、京都の治安維持で血の雨を降らせた新選組の二番組組長・永倉新八もまた、神道無念流の最高位・免許皆伝を若くして得た達人でした。永倉は岡田十松の撃剣館の流れを汲む道場で腕を磨き、18歳で皆伝を取得したのちに脱藩、武者修行の旅を経て近藤勇の試衛館(天然理心流)一派と合流します。
池田屋事件において、沖田総司が病に倒れ、藤堂平助が額を割られて戦線離脱するなか、永倉は刀が折れ、鍔が手に食い込むほどの激闘を一人で戦い抜きました。後年、彼が遺した『新選組顛末記』などの手記からは、神道無念流仕込みの「体ごと踏み込んで相手の防御ごと粉砕する打突」が、真剣勝負の修羅場においていかに絶大な威力を発揮したかが克明に読み取れます。
水戸天狗党の怨念を背負った初代筆頭局長・芹沢鴨
新選組の創設期を率いた芹沢鴨も、水戸藩で戸賀崎系の神道無念流を極めた剣客でした。芹沢の豪放磊落かつ冷酷無比な太刀筋は、水戸天狗党の激派として修羅場をくぐり抜けてきた実戦経験と、神道無念流特有の重い一撃が結びついたものでした。思想の違いを超え、死線に立つ男たちがこぞってこの流派を頼りにした理由は、その圧倒的な「殺傷力の高さ」と「間合いの支配力」にありました。