米国本土やオーストラリア、ソ連などの連合国世論は、当初「天皇を戦犯として法廷に立たせ、処刑すべきだ」という強硬論が大半を占めていました。それにもかかわらず、東京裁判昭和天皇訴追見送りの理由が確立された背景には、マッカーサー自身の政治的打算と天皇への信認がありました。
マッカーサーはワシントンの統合参謀本部に対し、「もし天皇を処刑すれば、日本全土でゲリラ戦と暴動が勃発し、治安維持のために最低でも100万人の駐留軍と数十年単位の歳月が必要になる」と猛烈な反対電報を送りました。天皇を象徴として存続させ、その精神的権威を利用して間接統治を行うことこそが、米国にとって最もコストが低く、安全な統治手法であると確信したのです。
初会談以降、1951年にマッカーサーが解任されるまでの約5年半の間に、昭和天皇マッカーサー全11回会見経緯が積み重ねられました。回を重ねるごとに会見は儀礼的な枠組みを脱し、国際情勢、新憲法の制定、日本経済の再建、さらには共産主義勢力の台頭への対抗策に至るまで、多岐にわたる戦略的すり合わせが行われました。この緊密な意思疎通が、流血を伴わない平和的な占領統治と、戦後日本復興と昭和天皇マッカーサー会見の直接的な成果へと結実していったのです。