「岐阜」という特徴的な漢字の組み合わせは、戦国時代の動乱期に誕生しました。永禄10年(1567年)、美濃国の拠点であった斎藤氏の稲葉山城を攻略した織田信長は、それまで「井口(いのくち)」と呼ばれていたこの地を「岐阜」へと改称しました。
この改名の由来として広く知られているのが、中国古代の歴史と儒教精神に基づく二つの聖地です。
一つ目は、中国古代の周王朝において文王が立ち上がり、天下統一の礎を築いた発祥の地「岐山(きざん)」です。信長は自らを周の文王になぞらえ、美濃から天下統一を果たすという強烈な政治的野望を「岐」の一文字に託しました。
二つ目は、儒教の開祖である孔子が生まれた聖地「曲阜(きょくふ)」です。単なる武力による制圧だけでなく、学問や徳による高潔な統治(徳治主義)を目指す理念から「阜」の文字が採用されました。すなわち「岐阜」とは、「武力による天下統一(岐山)」と「徳による平和な治世(曲阜)」を融合させた究極のブランディングネームだったのです。
【神話の解体】信長単独命名説の真実と僧侶・沢彦宗恩の関与
通説では「信長自身が名付けた」と語られがちですが、当時の一次史料や寺院伝承(『政秀寺古記』など)を紐解くと、信長の外交・政略ブレーンであった臨済宗の禅僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)の進言があったことが判明しています。
沢彦は信長に対し、「岐山」「岐陽」「岐阜」の3つの候補を提示したと伝えられています。信長はその中から、学問の都・曲阜の文字を含む「岐阜」を即決で選び取ったとされています。尾張を統一し、美濃を手中に収めた信長が、中世的な秩序を打ち破り「天下布武」を本格的に始動させる宣言こそが、この改名劇の本質でした。