秀頼が生まれる前、実子に恵まれなかった秀吉は、親族や有力大名の子を次々と養子・猶子に迎えました。織田信長の息子(羽柴秀勝)、徳川家康の次男(結城秀康)、八条宮智仁親王、宇喜多秀家、小早川秀秋など、その養子網は政略の道具でもありました。
その中でも、姉の子である甥の豊臣秀次は秀吉の養子となり、関白の地位と聚楽第を譲り受けて名実ともに豊臣政権の「二代目」となったはずでした。しかし、秀頼の誕生によって事態は一変します。
1595年、秀次は突如として謀反の疑いをかけられ、高野山へ追放された末に切腹を命じられました。この「秀次事件」の悲劇はそれだけに留まらず、京都・三条河原において秀次の妻・側室・子供ら一族39名が公開処刑されるという凄惨を極める結末を迎えます。この苛烈な粛清劇は豊臣政権の屋台骨を揺るがし、後の豊臣家分裂の決定打となりました。