三沢さんの歩みを振り返る上で、避けて通れないのが2009年6月13日という命日です。広島県立総合体育館グリーンアリーナで行われたGHCタッグ選手権試合中、対戦相手の斎藤彰俊から受けた急角度のバックドロップにより、三沢さんは意識不明に陥りました。リング上での心臓マッサージやAEDによる懸命な蘇生措置、搬送先の病院での処置も虚しく、午後10時10分に帰らぬ人となりました。公式な死因は頸髄離断と発表されています。
報道各社の取材や関係者の手記により、当時の三沢さんの肉体が限界を疾うに超えていた事実が浮き彫りになっています。長年の激闘によって頸椎は変形し、日常的に首の激痛や腕の痺れに悩まされていました。医師からは引退を強く勧められていたにもかかわらず、なぜ三沢さんはリングに立ち続けたのか。その背景には、2009年3月に起きた日本テレビによる地上波テレビ中継の打ち切りという過酷な経営危機がありました。
テレビ放映権料を失ったノアの経営を維持し、所属選手や社員の給与を守るためには、看板社長である三沢光晴自身が地方巡業のポスターに顔を出し、リングで戦い続けるしかなかったのです。事故の真相とは、誰か一人の技の過失などではなく、「過密な巡業日程」「社長兼エースという二重の重責」、そして「自己犠牲を厭わない三沢さんの責任感」が複雑に絡み合った悲劇的な構造欠陥でした。
この痛ましい別れを機に、プロレス界は根本的な意識改革を迫られました。ノアをはじめとする各団体は専属ドクターの帯同、脳震盪プロトコルの導入、危険技の自粛や受け身の見直しなど、選手の命を守るための厳格な安全基準を整備しました。三沢さんの死は、プロレスという文化が近代的なアスリート競技として存続するための、極めて重い教訓となったのです。