浅井長政の離反後、姉川の戦いを経て、天正元年(1573年)に信長は小谷城を総攻撃しました。これが小谷城の戦いです。落城に際し、浅井長政とその父・久政は自害を選びます。長政はお市の方と3人の娘たち(浅井三姉妹:茶々、初、江)を城から脱出させ、信長のもとへ送り届けました。
信長は裏切った長政の首を髑髏杯にしたという凄惨な逸話が残る一方で、妹であるお市と姪たちを手厚く保護し、尾張の織田信包(信長の弟)のもとで養育させました。
しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変によって信長が討たれると、彼女たちの平穏は再び破られます。清洲会議の結果、織田家の筆頭家老である柴田勝家とお市の方の再婚が決定。勝家が治める越前・北ノ庄城へと入ります。この再婚は、急速に台頭する羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)への対抗軸として、織田家の結束をアピールする意図が込められていました。
だが翌天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉に敗北。北ノ庄城を包囲された勝家とお市の方は、天守に火を放ち自害しました。お市の方は勝家から城を脱出するよう説得されたものの、それを拒絶。「二度までも夫を失い、敵の手にかかるのは武門の恥」として、37歳前後の若さで壮絶な最期を遂げました。
城外へ逃がされた浅井三姉妹は、その後秀吉の庇護下に入り、歴史を大きく動かします。
- 長女・茶々(淀殿):豊臣秀吉の側室となり、秀頼を産んで豊臣家の最高権力者へ。
- 次女・初(常高院):京極高次へ嫁ぎ、大坂の陣では豊臣・徳川両軍の和平交渉役として奔走。
- 三女・江(崇源院):徳川2代将軍・徳川秀忠の正室となり、3代将軍・家光や天樹院(千姫)、東福門院(和子)の母となり、天皇家へと血脈を繋ぐ。