現在、慈恵病院の取り組みは新たな局面を迎えている。ゆりかごへの預け入れだけでなく、母子の生命を守るための「内密出産制度」の実践だ。これは、母親が病院の信頼できる相談員にのみ身元を明かし、行政や戸籍には名前を残さずに出産する仕組みである。自宅やホテルでの危険な孤立出産を防ぎ、母子ともに安全な医療処置を受けさせるための苦肉の策として導入された。
しかし、この運用は現行の法体系と激しく軋轢を起こす。日本の戸籍法は出生届の提出義務者を定めており、親の名前が空白のまま出生登録を行うことには法的なグレーゾーンがつきまとう。慈恵病院では、法務省や地方自治体との協議を重ね、市長の職権によって戸籍を作成する「市長嘱託」などの特例的な手続きを用いて子どもたちの法的身分を確保してきた。
現場の運用実態は極めて過酷だ。全国から身元を明かせない妊婦が夜行バスやヒッチハイクで熊本へ辿り着く。陣痛が始まってから駆け込むケースも珍しくない。医療事故のリスク、母親への精神的ケア、そして出生後の法的手続きまで、その重責の多くを一民間病院が背負わされている構造は、制度的支援の脆弱さを如実に物語っている。