現代のインターネットやSNSにおいて「かぐや姫 帝」と検索すると、高畑勲監督による名作スタジオジブリ映画『かぐや姫の物語』の印象が先行して語られるケースが散見されます。特に劇中で帝が披露した特徴的な尖った顎(アゴ)の造形や、「そなたを幸せにできるのは私しかいない」と姫を背後から抱きしめて逃げ出されるシーンは、ネットミーム(ネタ画像)として拡散され酷評の的となる場面もありました。
しかし、これらを古典文学の歴史的文脈から切り離して解釈するのは致命的な誤解を生みます。高畑監督がジブリ版で極端にクローズアップしたのは、平安期の「家父長制の頂点に君臨する権力者の身勝手さ」という、原作前半の短所です。映画では姫の主体的自由を抑圧する象徴としてデフォルメされていましたが、原作である『竹取物語』の後半を丹念に読み解くと、帝の描かれ方は驚くほど紳士的で思慮深さに満ちています。
古典原本における帝は、拒絶された後に力ずくで姫を囲い込むような追撃を行いません。翁の家に2千人もの警固の兵士を送り込んだのも、姫を月の使者から奪還・保護するためであり、自らの欲望のためではなく姫の嘆きを救うための国家防衛レベルの救援措置でした。悪役でもなければ単なるピエロでもない、当代随一のインテリジェンスと哀愁を背負った男――それこそが古典テキストの中に息づく本来の竹取物語における御門の人物像です。