シベリア出兵はなぜ泥沼化した?米騒動を招いた領土野心の真相を徹底解説

シベリア出兵はなぜ泥沼化した?米騒動を招いた領土野心の真相を徹底解説

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1920年、救出すべき対象であったチェコ軍団の欧州送還が完了し、共同歩調をとっていた米軍も完全撤退しました。大義名分が完全に消滅したにもかかわらず、シベリア出兵の長期化理由はどこにあったのでしょうか。

決定的な契機となったのが、1920年3月から5月にかけて発生した尼港事件の影響です。アムール川河口の港町ニコラエフスク(尼港)で、ヤコフ・トリアピーツィン率いる過激派赤軍パルチザン部隊が、包囲された日本陸軍守備隊(約350人)と一般邦人居留民、さらには白軍系ロシア人らを虐殺。居留民と軍人合わせて700人以上の日本人が非業の死を遂げました。

この惨劇は国内世論に凄まじい衝撃を与えました。陸軍や強硬派は「殉難同胞の仇討ち」「赤魔の残虐性に対する懲罰」を叫び、即時撤兵論を封殺。日本政府は事件の賠償責任をソビエト政権が認めるまでの担保という名目で、サハリン島北部の北樺太保障占領に踏み切りました。これにより、軍の駐留はさらに長期化し、泥沼から抜け出せない悪循環に陥ったのです。

しかし、背後にはより根深いシベリア撤退の真相が存在していました。一度送った大軍を成果ゼロで引き揚げれば、軍部のメンツは失墜し、莫大な戦費と犠牲に対する責任問題が不可避となります。「これまで流した血と費やした金を無駄にはできない」というサンクコスト(埋没費用)の呪縛が、軍中枢の政策決定を完全に麻痺させていました。

泥沼の駐留に終止符を打ったのは、軍の自浄作用ではなく、外からの強力な国際圧力でした。1921年11月から開催されたワシントン会議において、アメリカをはじめとする列強各国は日本のシベリア居座りを厳しく糾弾。領土保全の原則を突きつけられ、国際的孤立を恐れた日本政府は、1922年に成立した加藤友三郎内閣のもとでようやくシベリア本土からの撤兵を断行しました。なお、北樺太の保障占領が解かれたのは、日ソ基本条約が締結された1925年5月のことです。

山崎 陸
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山崎 陸

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