明治日本の輝かしい夜明けを描く歴史叙述において、戊辰戦争 教科書に載らない歴史の最たるものは、東北の地で繰り広げられた内戦の「過酷な実情」とその不条理な開戦プロセスです。1868年、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸城を無血開城させた明治新政府は、恭順の意を示していた東北諸藩に対して過酷な武力掃討を断行しました。
特に焦眉の契機となったのが、奥羽越列藩同盟 悲劇の経緯です。会津藩主・松平容保の嘆願赦免を求めて結成された平和的同盟は、新政府軍の民政局総督・世良修蔵の傲慢な態度や暗殺事件を機に、武力衝突へと引きずり込まれました。「奥羽皆敵」と見なされた東北諸藩は、近代兵器で圧倒する新政府軍に対し、旧態依然とした装備で絶望的な防衛戦を強いられることになります。
当時の従軍兵士の日記や書簡を分析すると、新政府軍内部には「反逆者への制裁」という名目のもと、容赦ない破壊工作を是とする空気が充満していました。勝者の正当性を担保するため、敗者側の嘆願や戦後処理の不備は公的記録から削ぎ落とされ、これが現代に至る「歴史のタブー化」の原点となっています。