主人公・立花喜久雄の人物像を読み解くうえで、真っ先に名が挙がるのが人間国宝・坂東玉三郎だ。梨園の御曹司ではない境遇から芸養子として入門し、並外れた美貌と徹底した自己規律によって現代最高の女方へと昇りつめたその歩みは、喜久雄の運命と驚くほど共鳴する。劇中で描かれる舞台袖の冷徹な空気感や、指先一つに魂を宿すような求道的な所作の描写には、玉三郎が歩んできた孤高の芸道が色濃く反映されている。
しかし、著者の吉田修一が描き出したのは単一のモデルの複写ではない。上方歌舞伎を背負った三代目中村鴈治郎(坂田藤十郎)の艶やかな情念、あるいは戦後歌舞伎の復興に命を削った数多の役者たちのエピソードが、重層的なモザイク画のように喜久雄という一人の天才へ注ぎ込まれている。実在の伝説を昇華させ、フィクションだからこそ到達できた極限のヒューマンドラマがここにある。