板垣退助が自由党を結成した背景には、当時の政治情勢が生んだ必然的な危機感と、強烈な国家構想がありました。決定打となった理由は主に次の3点に集約されます。
第1に、「1890年の国会開設に向けた政権準備」です。明治十四年の政変により、政府は10年後の議会開設を余儀なくされました。選挙制度が導入され議会が開設されれば、議席を制した勢力が政治の主導権を握ります。烏合の衆のままでは薩長藩閥の圧力に対抗できないため、全国の民権派を統括する恒久的な政治プラットフォームが不可欠でした。
第2に、「藩閥専制(薩長閥)の打破と主権の拡大」です。明治政府は薩摩・長州の一部実力者が権力を独占し、特権階級の利益を優先していました。板垣はルソーの『民約論』に深く傾倒し、中江兆民ら知識人の影響を受けながら「人民の自由と権利」を国家発展の原動力と位置づけました。主権を国民の手に広げるには、地方の豪農や商工業者、都市の知識人を包摂した大衆政党が必要だったのです。
第3に、「過激化する不平士族や農民運動の組織化と平和的統合」です。重税に苦しむ農民の不満は暴動化寸前であり、これを放置すれば凄惨な流血の反乱に発展しかねない状態でした。板垣は不満エネルギーを武力暴動ではなく「言論と合法的な選挙運動」へ誘導するため、政党という枠組みで国民を規律づけようと試みました。