未読者や序盤しか読んでいない層の間で時折見受けられる誤解が、「年下のヤンキーに溺愛されるアラサー女性の現実逃避ファンタジーではないか」という偏見です。しかし、この認識は本作の本質から大きく乖離しています。
最大の見落としは、本作が「共依存の解体」を極めて自覚的に描いている点にあります。もし本作が安直なファンタジーであれば、強くて優しい遼平が白馬の騎士として朋子を救い出し、朋子は遼平に守られるだけの存在として完結していたはずです。しかし、松虫あられ氏の筆致はそのような甘えを許しません。
作中では、遼平に頼り切りになりそうになる朋子に対して、遼平自身が「俺に頼るなとは言わんけど、決めるのはお前やぞ」と突き放す場面が存在します。遼平は朋子のシェルターにはなっても、彼女の人生の操縦桿を代わりに握ることはしません。朋子自身が自分の頭で考え、自分の口でNOを言い、自力で泥沼から這い上がるプロセスを根気強く見守るのです。
さらに、遼平自身もまた決して完全無欠の聖人ではありません。感情的になって失敗したり、自身の生い立ちに対するトラウマから心を閉ざしそうになったりする脆さを抱えています。二人の関係は「救う側と救われる側」の固定された構図ではなく、互いの欠落を晒し合いながら、人間として対等に補い合うプロセスそのものなのです。この泥臭い現実感こそが、大人の読者に刺さり続ける最大の要因です。