1945年3月下旬、米軍の上陸を目前に控えた沖縄本島。大日本帝国陸軍の第32軍を率いる牛島満司令官らは、持久戦を戦い抜くための防衛体制を急ピッチで敷いていた。本土決戦の準備期間を稼ぐための「捨て石」とも形容される作戦方針のもと、圧倒的な兵力不足を埋める手段として白羽の矢が立ったのが、地元の未成年学徒たちだった。
法律上は徴兵適齢期に達していない少年たちを合法的に戦場へ動員するため、軍部が持ち出したのが「防衛召集」という法的手続きの拡大解釈だ。沖縄師範学校や沖縄県立第一中学校、開南中学校など県内の中等学校12校から、約1,780人もの生徒が隊員として編成された。軍国主義教育のただ中で育った彼らにとって、召集を拒絶する選択肢など存在しなかった。「お国のために命を捧げる」という純粋無垢な忠誠心は、軍の上層部にとって都合の良い防波堤として消費されていった。