フォークル『イムジン河』発売中止の真相|封印と解禁の全軌跡に関する主要なデータを分かりやすく解説いたします。
フォークルの名曲『イムジン河』が生まれた背景には、当時京都の高校生・青年だった松山猛氏の純粋な異文化交流の物語がありました。松山氏は中学時代、京都朝鮮中級学校の生徒とサッカーの試合を通じて知り合い、その交流の中で彼らが口ずさんでいた美しいメロディに強く心を奪われました。
松山氏の手記や当時のインタビューによると、耳に残った美しいメロディと、断片的に教えてもらった1番の歌詞の日本語訳をもとに、記憶を頼りにノートへと書き留めたと述懐されています。その後、松山氏はアマチュア時代の盟友であった加藤和彦氏にこの歌を教え、加藤氏がギターでコードを付け、松山氏が自らの感性で2番・3番の歌詞を補作して完成させました。
項目詳細・数値データ当時の音楽業界・社会的背景編集部の見解・評価帰って来たヨッパライ1967年12月発売
公称売上約280万枚自主制作盤からラジオ深夜放送で火がつき、日本初のアマチュア発ミリオンセラーを樹立。早回しテープと関西弁を駆使した、日本の音楽産業の常識を覆す革命的ポップス。イムジン河1968年2月21日発売予定
初回プレス約13万枚回収朝鮮総連からの抗議および冷戦下の国際政治リスクにより、発売前日に電撃中止。政治的配慮による過剰規制の象徴となるも、楽曲の純粋な美しさは語り継がれた。悲しくてやりきれない1968年3月21日発売
オリコン最高5位『イムジン河』発売中止の危機を救うため、急遽ホテルの一室で制作された代替曲。『イムジン河』の音符を逆回し・再構築して生み出された加藤和彦の天才的メロディ。青年は荒野をめざす1968年12月発売
解散記念シングル五木寛之氏が作詞を担当。フォークルが結成当初から掲げた「1年限定活動」を完遂。フォークと歌謡曲を融合させた叙情詩であり、伝説のグループの有終の美を飾った。
松山氏が紡いだ「イムジン河 水清く とうとうと流る 水鳥自由にむらがり 飛びかうよ 我が祖国 南の地 おもいははるか」という日本語詞は、イデオロギーを超えて引き裂かれた民族の悲哀と故郷への望郷の念を純粋に歌い上げたものでした。しかし、その純粋さゆえに、当時の冷戦対立のリアリズムと衝突することになったのです。